刀装具【鐔・縁頭・目貫・小柄】 赤銅地二羽烏図目貫 - Shakudo ji 2wa Karasu zu Menuki -
- 縦/height1.6cm
- 横/width2.8cm
- 厚み/thickness0.5cm
- 正価/price売却済-Sold-
赤銅と金色絵で仕立てた烏二羽。片方は赤銅のまま、片方は金色絵が施される。カラスには細かく鏨が入れられ、羽毛の雰囲気が良く出ており、嘴をひらいた烏からはかぁと啼く声まで聞こえてきそうである。
二羽のカラスを御先(ミサキ)と呼ぶ地方がいくつかある。神使とも神の眷属、御先神とも云われる。神に先んじてあらわれ、また神の意志を知る兆しともされている。柳田國男の著「烏勧請の事」には鳥喰神事という項がある。御烏喰式、この神事の際にはいつでもひとつがいの烏がやってくるという。相続烏が出来ると親は熊野へ帰って行くそうである。呼び名や形は違えど、日本各地にあるこの神事、風習、祭。田の神を迎えもてなし、その年の吉凶を占うのだという。
ちなみに鷲子神社の山中七奇には「神烏雌雄」と石碑に刻まれている。
二羽のカラスを御先(ミサキ)と呼ぶ地方がいくつかある。神使とも神の眷属、御先神とも云われる。神に先んじてあらわれ、また神の意志を知る兆しともされている。柳田國男の著「烏勧請の事」には鳥喰神事という項がある。御烏喰式、この神事の際にはいつでもひとつがいの烏がやってくるという。相続烏が出来ると親は熊野へ帰って行くそうである。呼び名や形は違えど、日本各地にあるこの神事、風習、祭。田の神を迎えもてなし、その年の吉凶を占うのだという。
ちなみに鷲子神社の山中七奇には「神烏雌雄」と石碑に刻まれている。
「鳥喰神事」
『防長史学』という雑誌(二巻一号)に、玖珂郡柱野村杉森大明神の、御鳥喰神事というのを報じている。 旧暦九月十三日の朝、餅を二重ねと米の粉を餅の形にしたもの一重ね、それにその朝の飯・しる・菜を添えて、社の前なる御供石の上に置くと、即座に烏二羽来たってこれを食う。ただしけがれがある時は烏来たらずして石の上に腐り、また他の鳥獣も食わぬというが、無論そういう場合はめったにないのであろう。 この烏がただ二羽ということは、宮島でも伝えられていて人がよく知っている。いつでも一つがいに限って出て来るということが信じられ、相続烏が出来ると親は熊野へ帰っていくとさえいう者がある。これにも何か理由のあることらしいが、私などにはまだ説明することが出来ない。関東の方でも那須の矢又村の鷲子(とりのこ)神社に、二羽烏というのが山中七不思議の一つに数えられているそうだが(『下野神社沿革史』巻八)、これも恐らくお社の祭りなり、または信心の参拝者なりの供え物を、出て来てご馳走になる当番の如きものであったらしく、土地ではその二羽烏をミサキともいっている。 ミサキ烏という言葉は、また宮島でも熊野でも聴くことがある。ミサキは先鋒であり、従って神々の代表者というような意味ではなかったろうか。とにかくに人民にもっとも多く接触する神霊に、その名を用いた例が他にも沢山ある。これによって思い合わせることは、西の方の諸県では現在は村共同に、鎮守の森において行う烏祭を、東北や越後は今も家々で、個々に営んでいるのが多いことである。言いかえれば、烏は餅をふるまわれる機会が、この方面では西部の同類よりもずっと多いらしいのである。
『防長史学』という雑誌(二巻一号)に、玖珂郡柱野村杉森大明神の、御鳥喰神事というのを報じている。 旧暦九月十三日の朝、餅を二重ねと米の粉を餅の形にしたもの一重ね、それにその朝の飯・しる・菜を添えて、社の前なる御供石の上に置くと、即座に烏二羽来たってこれを食う。ただしけがれがある時は烏来たらずして石の上に腐り、また他の鳥獣も食わぬというが、無論そういう場合はめったにないのであろう。 この烏がただ二羽ということは、宮島でも伝えられていて人がよく知っている。いつでも一つがいに限って出て来るということが信じられ、相続烏が出来ると親は熊野へ帰っていくとさえいう者がある。これにも何か理由のあることらしいが、私などにはまだ説明することが出来ない。関東の方でも那須の矢又村の鷲子(とりのこ)神社に、二羽烏というのが山中七不思議の一つに数えられているそうだが(『下野神社沿革史』巻八)、これも恐らくお社の祭りなり、または信心の参拝者なりの供え物を、出て来てご馳走になる当番の如きものであったらしく、土地ではその二羽烏をミサキともいっている。 ミサキ烏という言葉は、また宮島でも熊野でも聴くことがある。ミサキは先鋒であり、従って神々の代表者というような意味ではなかったろうか。とにかくに人民にもっとも多く接触する神霊に、その名を用いた例が他にも沢山ある。これによって思い合わせることは、西の方の諸県では現在は村共同に、鎮守の森において行う烏祭を、東北や越後は今も家々で、個々に営んでいるのが多いことである。言いかえれば、烏は餅をふるまわれる機会が、この方面では西部の同類よりもずっと多いらしいのである。
「鳥勧請の事」より 柳田國男 昭和九年(1934)